スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 死ぬよりも前に860のご法話

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して両極端を掴むことなく貪りを離れ、掴まないが故に慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を離脱して自らの思考を制し、妄想(もうそう)分別におもむかない。これら比較することは、修行とは全く関係のないことだからである。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に859のご法話

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、世の中を遍歴し、あるがままに理法を知るかれは、世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難にも動揺することはない。かれは全てを知るものであり、無抵抗の境地を究めるものである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に858のご法話

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

聖者は、あるがままに世の中を遍歴し、全てのこだわりを手放し、子も、家畜も、田畑も、地所に縛られることはない。それらにこだわらず、掴むことなく、すでに完成された理法をあるがままに知る智慧が、かれには存在する。全ては人間的思考の運動(快⇔不快)を制したところからの気づきと智慧なのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857のご法話

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

世の人々は、自らの想い(生き方、生存の仕方)に振り回され、自らが作り出した荒波に溺れている。常にその事を考えて落ち着かないかれらに安穏はないのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、自らの欲望に対して考え悩むことなく、解放されている。あるがままに世を遍歴し、無抵抗の境地によって結ぶ戒めから解き放され荒波を回避し、彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に856のご法話

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、あるがままに世の中を見聞し、理法を知る。完全なままに展開される理法を視てこだわらない。そのままで、完成されているからである。故にかれは、生存のための妄執も、この苦の生存を終わらせたいと言う妄執も存在しない。全ては、気づきと、知ることである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855のご法話

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

修行者とは、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけていて世間においての比較をしない。世の人々は、比較するが故に心荒むものである。この心の動揺が発生すると心に葛藤が生まれ荒波が圧制する故に世の人々は、自らが作りなす荒波に溺れるのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、煩悩に溺れっることなく世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854のご法話

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

世の人々は利益を求めてうろつき、得られなければ怒り、その妄執によって他人とぶつかる。そして美味を求めては一時的な喜びに溺れる。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何ものをも掴むことなく手放し、得ないが故に怒ることもなく、ぶつかることもなく、美味を求めてうろつくこともない。すなわちこだわりを取り払った修行者、それが聖者である。

スッタニパータ 死ぬよりも前に853のご法話

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

修行者は、死ぬよりも前に次の事が実行できないといけない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また、何かを得たとしても、高慢にならず、常に人間的思考の運動(快⇔不快)を制して柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、人間的思考の運動(快⇔不快)によって物事を分けて信じる事を離れて、分けないが故に嫌うこともない。このようにふるまう修行者は聖者と呼ばれる。

スッタニパータ 死ぬよりも前に852のご法話

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

我々修行者が死ぬよりも前にやり遂げる事。それは人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、(遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、それらを得るために偽ることなく、両極端を貪り求めることなく、何かを得たとしても、ものおしみせず、何かを得ても傲慢にならず、他の誰かが何かを得ても陰口を叩かない。故に心は平安であり安穏なのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851のご法話

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)の赴くまま未来を願い求め、過去を思い出して憂(うれ)える。感官で触れる諸々の対象すなわち目に見えるもの、耳で聞こえるもの、鼻で臭うもの、舌で味わうもの、触れるものに対して人間的思考の運動(快⇔不快)で反応し、快を掴み不快を排除する。この行為が禍福を作り出し、快⇔不快の運動を発生させ、それが時間を作り出し、無常の世を作り出すのである。この世界からの解脱、それは、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもなく、感官で触れる諸々の対象について人間的思考の運動(快⇔不快)を制して中道を歩むことである。