920 海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上らせてはならない。
海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、分別を静止して不動であれ。修行者は何ものについてもそれらを掴むことなく行い、欲念をもり上らせてはならない。
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920 海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上らせてはならない。
海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、分別を静止して不動であれ。修行者は何ものについてもそれらを掴むことなく行い、欲念をもり上らせてはならない。
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、心のうちが平安となれ。何かを掴もうと外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には、全てを手放し、取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。
慢心すなわち人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げて『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。人間的思考の運動を制することこそ修行の第一歩だからである。
917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らの内的な心の観察にても外的な現象の観察にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。慢心を立ち上げる事が安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。それらの想いも制しつつ世の中を遍歴せよ。
915 〔問うていわく、ー〕「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れること平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」
916 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
師(ブッダ)は答えた、「人間的思考の運動(ある⇔ない)という運動を立ち上げるような〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して人間的思考の運動(ある⇔ない)を制して、目の前の現象をよく観察し、気づきにより学ぶことである。そこから智慧が生まれるのである。
914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。
見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、敵対することがない。かれは分別する負担をはなれて解放されている。かれは、何かを掴もうと、はからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。
913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。
過去に人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて掴んだ過去の汚れを捨てて、新しい汚れすなわち何かを掴むことなく、欲におもむかず、両極端に執着して論ずることもない。賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し諸々の偏見を離脱して、人間的思考の運動(快⇔不快)の内にある世の中に汚されることなく、それらの想いから解放されていて自分を責めることもない。
912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-
聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。党派に組すると言う事は、人間的思考の運動(快⇔不快)による見方によって、その考えを掴み依存してしまうのである。かれは不安に駆られてそれらを掴もうとする人々のうちにあっても安らけく、泰然として、何かを求め執することがない。ー他の人々は人間的思考の運動(快⇔不快)によってそれに執着しているのだが。-
911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-
修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、全体を正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。自らの好みによる見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)による見解を知って、心にとどめない。ー他の人々は分別によってそれに執着しているのだが。真の修行とは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して観察することにあるのである。
910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ自らの見方を掴み「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重(快に想う)しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。分別によって全体を見る事ができない修行者には真理を見ることは出来ないのである。