スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com


Warning: Undefined array key 0 in /home/r6286533/public_html/suttanipata.com/wp-content/themes/hpb20170224161711/breadcrumb.php on line 127
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893のご法話

893 人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。思考の運動によって、他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま中道を踏み外し論じるのであれば、その時点で他を批判する事は非常に滑稽である。その者は、「愚か」「不浄」と言うキーワードが立ち上がった時点でそれは人間的思考の運動と気づくべきである。故に非常に滑稽に見えるかれには確執が付きまとうのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892のご法話

892 人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を立ち上げ、ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自分の見方に執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

我が説のみに清浄があると説く者それはこだわりである。こだわりとは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げている状態で、両極端を掴んでいる状態で起こる。故に中道を踏みはずしているので真理を見る事はできない。それを見て智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく注視し、こだわりを捨て遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891のご法話

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を止められずに自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

自らの考えに「こだわる」もの。そのこだわりこそ人間的思考の運動の両極端なのである。それを掴んでは喜び、反するものは排除しようとする。これこそが人間的思考の運動なのである。智慧ある修行者はそのことによく気をつけ中道を歩み遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890のご法話

890 もしも、自らの人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を制することができずに他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに修行失格者となる。また、もしも自らの人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を制し自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

修行によって真理を見る者は他の者と比較する必要は無い。それはすでに自らの眼によって達成されているからである。故に修行完成者は他の者と争うことが無い。完成者はおのおのを称えあい安穏の地に住するのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇889のご法話

889 かれは自らの人間的思考の運動(真理⇔虚妄)が止められないために、誤(あやま)った妄見を以てみたされ、両極端を掴んでは驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、かれによればそのように完全なものだからである。

 

論争によって自らの想いを主張する修行者は自らんの人間的思考の運動(快⇔不快)によって掴んだ両極端を掴んでは喜ぶ。そして慢心に陥り完全だと思い込むのである。かれが「これだ」と思った瞬間、かれの人間的思考の運動(快⇔不快)は立ち上がっており、修行とはそれを止める事であるにも関わらずである。故に懸命な修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事に注視し、心動かされることなく世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇888のご法話

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げたまま他人を蔑視し、そのように語る

 

 

人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げたまま真理に達したと言う事はおかしな話である。なぜなら真理というものは人間的思考の運動を止めて見えるものであって、人間的思考の運動を立ち上げたままでは到底見る事はできない。故にそのような修行者は自らが掴んだ何かを妄信してそれを真理だと言っているのである。故に智慧ある修行者は、それらにとらわれることなく、自らの心の動きに注視し、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇887のご法話

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存=人間的思考の運動(正⇔誤)により掴み依存して他の説を蔑視(べっし)し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

偏見というのは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げた偏った見方である。学問というのは一つの方法である。思想というのも他の人の見方である。それらを人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、自らの考えと同じであれば分別して掴み喜ぶまた考えが違うものは愚者という事になる。これを見ても自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められていないので真理を見る事はできない。故に修行者はまずは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて観察に努めるべきである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇885、886のご法話

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見=人間的思考の運動(真理⇔虚妄)にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

ひとたび修行者が人間的思考の運動(正⇔誤)を立ち上げると自らの考えあるいは見たものが正しく、他のものは誤りであると見る。それが真理だと思い込めば他のものは全て虚妄だと思うのである。真理を見るにはまずその人間的思考の運動を止めないとみる事はできなのであるから智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動を止めて真理を見たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇884のご法話

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道の眼によって、その真理を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

真理とは自ら見るものであって他の人から教えてもらうものではない。中道の眼で観察をし、そこからの気づきで得られるものである。故に他の人が見たものをどうこう言う必要もない。聖者は自らの眼で見、遂には彼の岸へと到達したのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇883のご法話

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった両極端への想いに執見をいだいて論争する。何故に諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの修行者は同一の事を語らないのであろうか?それは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができないからである。

 

人が「これだ」と思い込んで掴んだ想いそれは人間的思考の運動(快⇔不快)である。故にその想いに執着したならば、他人とぶつかるのである。それぞれがそれぞれの想いに執着をし、衝突する。それを見て賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、想いを掴むことなく、遂には真理を見たのである。