ご法話 スッタニパータ 老い812のご法話 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保つことによって両極端に汚されることがない。蓮華の上すなわちど... ご法話
ご法話 スッタニパータ 老い811のご法話 聖者はなにものにもとどこおることなく、人間的思考の運動(愛⇔憎)を制し、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように運動に... ご法話
ご法話 スッタニパータ 老い809のご法話 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、消滅する対象に対しての憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。故にまた生起と言う輪廻を繰り返す。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)=「輪廻からの解脱」を見たので... ご法話
ご法話 スッタニパータ 老い808のご法話 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。この世界を中道の眼で見るとき、それは、生起と消滅と言う現象に過ぎないのである。すなわち何の誰それが生起し、何の誰それが消... ご法話
ご法話 スッタニパータ 老い807のご法話 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。故に再び追い求めて輪廻の渦に巻き込まれてはならない。人はこの世で愛する人と会ったなら... ご法話