スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ マーガンディヤ837の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する人間的思考の運動(快⇔不快)の反応の仕方による執着を思考の反応によるものであると確かに知って、諸々の偏見における誤った反応の仕方を見て、現象に固執することなく、現象を観察し、真理を知って、内心の安らぎをわたくしは見た。」

スッタニパータ マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

師(ブッダ)は語った、「われは昔さとりを開こうとした時に、異性が近づいてきた、その時、自らの心に愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)が立ち上がるさまを見て、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろうと観想して、わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだと自らに言い聞かせたのである。

スッタニパータ パスーラ834の解説

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

 

さてあなたは「自分こそ勝利を得るであろう」と人間的思考の運動(勝⇔負)による想いを思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、人間的思考の運動を制し、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、心に想い描いた勝利を実現することは、とてもできない。それらの運動の範疇を超えたところに仏陀は住しているからである。

スッタニパータ パスーラ833の解説

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

またかれらは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす、対立を思考を止める事で、離脱して行い、あるがままに見、一つの見解を他の諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

スッタニパータ パスーラ832の解説

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

特殊な偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。修行者は、自らの内に真理を見出し、人間的思考の運動(他との比較)の範疇に真理を見出すことは無いのである。

 

 

スッタニパータ パスーラ831の解説

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人のいるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。修行者が戦うべき相手は外にあるものではなく内にある。すなわち自らの心の動揺に打ち克つ修行である。

スッタニパータ パスーラ830の解説

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

心の高ぶりというものは、運動を伴うのであるから、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれはその運動が感情へも伝わり、慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「何かを得ることによって清浄が達成される」とは説かないからである。その思考の運動を止める事によってのみ、安穏を観ることができるのである。

スッタニパータ パスーラ829の解説

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。これらの人間的思考の運動(称賛⇔非難)よって(喜⇔悲)が発生し、心の荒波となり苦が生じるのである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動に常に気をつけ、それらを制して世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ パスーラ828の解説

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には人間的思考の運動(得意⇔失意)による得意と失意とがある。心に思い描いた利益が得られると、得意と言う想いが立ち上がり、得られなければ、失意へと落ち込む。ひとは、これを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たない。これら感情の浮き沈みは、思考の運動を止めるという修行の妨げになるだけなのである。

スッタニパータ パスーラ827の解説

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、人間的思考の運動(喜⇔悲)によって論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。修行者が気にするべきは、周りの反応の仕方ではない。自らの反応の仕方に対して、よく気をつけて制することこそ修行なのである。