スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ 死ぬよりも前に850の解説

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

かの聖者は、自らの思考による動きを制して、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思考の動きを思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。これらの怒り、おののき、誇り、行い、そわそわ、言葉は、全て人間的思考の運動(快⇔不快)による快を求める思考、あるいは不快を排除する思考の運動によって起こるのであるから、聖者はこれら両極端の運動を制して安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に849の解説

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、人間的思考の運動による想いを完全に制し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。その想いが運動をもたらすのであるから、修行者よ、現象をあるがままに見て、想いを巡らせてはならない。

スッタニパータ マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

人間的思考の運動による想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。鏡のように分けずに見る智慧によって解脱(げだつ)した人には、全てを見透し、迷いが存在しない。人間的思考の運動による想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつき、また生まれる。

 

スッタニパータ マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、それらへの人間的思考の運動(優⇔劣)による見方を制して慢心に至ることがない。かれの本性はそのような運動をするものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは、それらへの自らの運動を制して、中道を歩み、執着の巣窟に導きいれられることがない。

スッタニパータ マーガンディヤ845の解説

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

修行完成者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、諸々の偏見を離れて世間を遍歴するのであるから、それら人間的思考の運動による見方に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は両極端を制して、平安を説く者であって、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。このように中道を歩む者である。

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

こだわりを捨てて、想いを定めずに世の中を遍歴し、自らの想いに親しみ近づくことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、その想いが描く未来に望みをかけることなく、人々に対して自らのこだわりによる異論を立てて談論をしてはならない。それらを離れて寛容さを養い、その開かれた目で真理を視るのである。

スッタニパータ マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

その修行者はどうして『わが説は真実である』と論ずるであろうか。またかれは『汝の説は虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?かれは、自らの考え方に固執しているが故に自らと同じ考えか、あるいは違うのか、と言う断定的な考えにこだわるのである。『同じ』とか『違う』とかいうことの思考による運動を制した人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

スッタニパータ マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

 

 

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその人間的思考の運動(ある⇔ない)と言った想いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう想いは存在しない。かれは、自らの運動に気づき、それらの想いを制して安穏を観たのである。

スッタニパータ マーガンディヤ841の解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分の人間的思考の運動(ある⇔ない)によるあれば、優秀、なければ劣等と言うような教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、それらの考えに執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの内心の平安である人間的思考の運動(ある⇔ない)を止める修行について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは、わたくしの説を『ばかばかしい』と見なすのです。

スッタニパータ マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それら教義、学問、知識に対する人間的思考の運動(ある⇔ない)を捨て去って、教義、学問、知識に固執することなく、こだわることなく、運動をせず、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。これが内心の平安である。すなわち、教義、学問、知識が「ある」、あるいは「ない」と言う分別による運動が発生し、かれらを迷いの流転へと引き込むのである。