スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ 争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中で〈快〉〈不快〉と称するものの運動に依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅との運動があることを見て、世の中の人は外的な事物にとらわれた両極端の断定を下す。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句869の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

 

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは両極端の思考に基づいた見解による」と、このように考えることを最上であると思って、清らかなことを観ずる人は、見解を最上の境地に達し得る智慧であると誤解する。もしも人が人間的思考の運動による見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が正しい道=人間的思考の運動を止めること以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人は、思考の運動が止められない人であり「偏見ある人」と呼ぶ。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

 

聖者は貪りを離れ、掴んでも慳(ものおし)みすることなく、人間的思考の運動(優⇔劣)を制して『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。自らの運動を制するがゆえにかれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、自らも妄想(もうそう)分別におもむかない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に859の解説

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

 

世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれはその人間的思考の運動(称賛⇔非難)による非難を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方を制して動揺することがない。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に858の解説

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

 

両極端の思考を制した分けてわがものという思考を離れ、かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。すべてはありのままにかれのもとを通り過ぎるのみである。このように結ぶ絆を捨て去ったかれには、もはや苦は生じないのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857の解説

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

 

諸々の欲望を人間的思考の運動(正⇔誤)の反応の仕方により顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ平安なる者である、とわたくしは説く。かれには人間的思考の運動(正⇔誤)による縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

 

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

依りかかることすなわち依存することのない人は、人間的思考の運動(正⇔誤)による依存であると理法を知って正⇔誤にこだわることがないのである。かれには、人間的思考の運動(生⇔滅)である「生存のための妄執も」、「生存の断滅のための妄執」=「精神的な貪り」も存在しない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

 

人間的思考の運動を制して平静であって、自らの反応の仕方に常によく気をつけていて、世間において分別比較対象することなく他人と自分と等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれは人間的思考の運動を制して煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ819の解説

819 そうして他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

 

 

 

 

そうして他人に詰(なじ)られた時には人間的思考の運動(良⇔悪)により良く見られたいという想いから虚言に陥(おちい)る。すなわち、自らを傷つける刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

 

人間には、人間的思考の想いがある。それは、家であり、その住所に根をおろすことであり、村の中での親交である。人間的思考の動きには、反復する運動があるのであるから、親交があれば敵対が生まれ、家に執着をし、住所にこだわり執着をする。聖者は、諸々の絆を捨て去り、家を捨てて、住所をも捨てて、村の中においても何かを求めて親交を結ぶことがない。諸々の欲望を離れ、未来に何かを欲する想いを捨て去っているのであるから、人々に対して異論を立てて談論してはならない。人が動くとき、そこには想いがある。その想いを制して聖者は中道を歩むのである。