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1069 ウパシーヴァさんがたずねた。「シャカ族の方よ。わたくしは。独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流を渡ることはできません。わたくしがたよってこの激流をわたり得る〈よりどころ〉をお説きください。あまねく見る方よ。」
1070 師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何も存在しない』と思うことによって、煩悩(ぼんのう)の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
1071 ウパシーヴァさんがいった、「あらゆる欲望に対する貪(むさぼり)りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するでありましょうか?」
1072 師は答えた、「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
1073 「あまねく見る方(かた)よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼(しょうりょう)となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」
1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測(はか)る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
1069(注釈) 他のものにたよることなく→ブッダゴーサによると、他の人にたよることもなく、教義にたよることのなく」というのである。〈宗教〉とは、普通は他のなにものかにたより帰依することだ、と考えられ、またそのように勧められている。ところが、ここでは、他人の権威にたよったり、教義にたよったりすることを否定しているのである。これは偶像破壊の精神に通ずる。
1070(注釈) 無所有→無一物、何も存在しないことをいう。ここでは無所有処定を意味している。ただし注釈が書かれた時にはすでに四無色定の観念が成立していたから、ブッダは無所有処定からさらに非想非非想定に入り、さらにそれを出て、より高い境地に入ったと説明している。しかし、これは明らかに原文からそれた説明である。諸々の疑惑を離れ→諸々の談論を離れと訳することもできる。ニルヴァーナというものは固定した境地ではなくて、〈動くもの〉である。前掲の「妄執の消滅を昼夜に観ぜよ」という文章を解釈して、ブッダゴーサは「昼夜にニルヴァーナを盛んならしめて、観世よ」という(あるいは「ニルヴァーナを消滅させるものとなして」とも訳し得る)。われわれが、ホッとくつろいだときには、その安らぎの境地を増大させることができる。それと同時にニルヴァーナを栄えさせ、増大させるか、あるいは少なくとも作り出すことができるものだと解していたのである。
1071(注釈) 想いからの解脱→七等至のうちで最上のものである無所有処定をいう。さらに、ブッダゴーサは、それを梵天の世界と同一視している。この原語を「想念のみ在する解脱」と訳することも、語学的には可能である。この解釈は、説一切有部や大乗仏教一般の教義学とは明らかに相違している(これらの学派の教義によると、梵天の世界は色界に属し、識無辺処や無所有処は無色界に属する)。この相違の示すことは、ブッダゴーサも説一切有部も、最初期の仏教の思想をそのままには伝えていない、ということである。ともかく無所有処には想念はないはずである。だからいずれにもせよ「想いからの解脱」と解する方が適当であろう。
1072(注釈) インドは暑熱の国である。樹蔭の涼しいところに休むのが理想であった。だから解脱のことを「清涼」と称するのである。