784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができず、汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、両極端の運動によって、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。故に平安と不安とを繰り返す人間的思考の運動(快⇔不快)となるのである。
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