812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
人は、常に人間的思考の運動(快⇔不快)に捉われ、見たり、学んだり、思索したことを両極端に分け、快いものを発見しては喜び、意見が違う事には怒る。あるいはこだわり苦悩する。聖者はそれを知って、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、両極端を回避し、心は動揺することなく、中道を歩み蓮の葉が水をはじくがごとく汚されることなく安穏を観たのである。
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