780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。
実に人間は、人に対しても分別しようとする思考が働く、それは、良し⇔悪し、という人間的思考の運動である。その分別により、他人を誹る言葉が生まれる。あるいは他人から聞いた言葉によって分別し、誹る言葉が生まれる。聖者はその人間的思考の運動すなわち分別を制し、分けない。故に誹る言葉、あるいは思考によって心が荒むこともなく安らぎに帰しているのである。
コメントを残す