823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー
俗世間の人間たちは、人間的思考の運動(快⇔不快)によりその快を追い求めて生活をしている。聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて制して修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)む。すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)の運動を制している聖者は、もはや運動による欲求にとらわれることはないのである。
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