908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止めて真理を見るという正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
ある修行者は立派な師匠につけば修業が進むと考える者もいるであろう、しかしその師匠が体験したもので解脱できるわけではない。解脱するには自らの人間的思考の運動を止めた眼で真理を見るしかないのである。ましてや他の師匠に頼っているようでは解脱には程遠いということを知るべきである。
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