901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)と言う分別を止められず妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。
人は、何かを求めて生まれ変わりまた死を迎える。解脱とはその生まれ変わりから解脱することを指す。どうであろうか?この無常の世にまた生まれてきたいと思うであろうか?そうは思わない人も多いであろう一部の特権階級の人々はまた同じような生存を求めるであろうがそれでもまた死を迎えるのである。それは死では解決しない。人は想いによって生まれてくるからである。「今度生まれてくる時には」と思えばやはり生まれてくる。そうならないためにはこの世の実相を知るべきである。つまり真理である。真理は人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がったままではみる事が出来ない。故にお釈迦さまは中道を説かれたのである。苦行を行えば何かを得られるかもしれない。ただそれを求める事それも両極端を求める事なのである。修行者はそれらへの想いを捨てさって中道を維持しその観察をもって実相(真理)を知り、その気づきによって解脱するのである。
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