聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪りを離れ、両極端に対して慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。
お釈迦様の説かれた中道の修行において他と比較することは無意味である。何故か?他より優れているから解脱するのではない他より劣っているから解脱できないこともない。等しくても解脱できるとは限らないからである。人間の世界では競い合って切磋琢磨するのであるが、仏の世界では自己鍛錬あるのみ故に修行者はそれをわきまえて、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らが見た真理に導かれて、彼岸へと到達せよ。
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