竜(修行完成者)は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それら=思考の運動に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、平安を説く者であって、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす誘惑が泥水だとするならば、修行者はまさに蓮の葉のごとくそれらを弾き飛ばし、そして遠ざける。このように自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制したならば、賢者となり遂には彼の岸へと到達するであろう。
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