881 またもしも人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。しかしながら、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目で観察しないならば、真理を観る事は到底できないのである。
自らの考えに執着している限り人間的思考の運動(快⇔不快)は動いているのである。故にその状態では半分を見、半分を見ないが故に全体をみる事はできない。全体を見なければ真理に到達することはできないのである。それを知って賢者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて遂には彼の岸へと到達したのである。
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