880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま、すべて各自の偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
真理というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままではみる事はできない。何故ならば、真理をみるには全体をみる必要があるからである。故に思考の運動を立ち上げて半分を見、半分を排除している人間には到底見えないのである。それを知って智慧ある修行者は、論争に赴かず自らの思考の運動を止めて真理をみたのである。
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