平静であって、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に常によく気をつけていて、世間において他人と自分と等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。修行者はこのような状態を常に保つべきである。
人は、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がると他人と自分を比較したりするものである。その状態では物事の本質をみる事は出来ない。聖者はその変化を見、かれこれがこのような状態とある時このように存在するということを明らかに知るそれが真理への道であり、平静に観るということである。故に智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遂には彼の岸へと到達するのである。
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