修行の達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制しており、そのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは何ものをも掴もうとせず執着の巣窟に導きいれられることがない。
真の修行者は自らが見たこと聞いたことに対して人間的思考の運動(快⇔不快)を制している。故にかれは、あるがままに物事を見、真実を知ることができるそれが仏の智慧である。かれは、自らを導き、他に導かれることはない。そのように賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、世の中を遍歴し、遂には安穏を観たのである。
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