たとえば王に養われてきた勇士が、人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げ、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの汝に、ふさわしい、人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げた真理に達した人のいるところに到(いた)れ。人間的思考の運動(勝⇔負)を制した聖者には相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。
確かに戦って論破すれば称賛はされるだろう。しかしそれが何になるのだろうか?称賛されたところで解脱するわけではない。それぞれが称賛されたいという者同士が論戦するのである。それを知って聖者は、自らの人間的思考の運動(勝⇔負)を制したところに真理への道があることを知って、自らの人間的思考の運動(勝⇔負)を制しよく気をつけ遂には解脱へと至るのである。
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