あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益=「人間的思考の運動(快⇔不快)」である快を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。
論争は人間的思考の運動(快⇔不快)である。心が称賛を求めてうろつく。その状態では思考の運動が動いているので、真理を観る事はできない。称賛されたから真理を観るのではない。非難されたから真理を見れないわけでもない。故に智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて安穏を観たのである。
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あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益=「人間的思考の運動(快⇔不快)」である快を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。
論争は人間的思考の運動(快⇔不快)である。心が称賛を求めてうろつく。その状態では思考の運動が動いているので、真理を観る事はできない。称賛されたから真理を観るのではない。非難されたから真理を見れないわけでもない。故に智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて安穏を観たのである。
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