かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、自らが観た真理ではなく他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、自分が称賛されるようにと望んで。
かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす高ぶる心を抑える事が出来ない。それは称賛されたいという気持ちである。故に互いを論破し攻撃をする。聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制するものである。その制した中道を歩むもののみ真理を観る事が出来るのである。
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