かれらは人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を立ち上げて両極端の思考である「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が両極端に依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理と思い込んでいる考えに固執(こしゅう)している。
世の宗教者たちは清浄だとか不浄だとか言うであろう。しかしそれもまた人間的思考の運動(清浄⇔不浄)なのである。他のものを排除するものに真理を観る事はできない。なぜならば半分を排除し全体を観る事が出来ないものは真理が見えないからである。故に修行者は自らの想いに固執することなく中道を歩み世の中を遍歴せよ。
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