人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。この無常の世では、自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家=「人間的思考の運動(快⇔不快)の領域」にとどまってはならない。
無常と言うのは書いて字のごとく常で無いという事である。人は「両極端=人間的思考の運動(快⇔不快)の快」を掴めたとしてもそれは運動をするので必ず失われてゆくつまり反対のものへと変化するのである。例えば人が美味しいものをたくさん食べたとしようそれは食べれば食べるほどおなかがいっぱいになりそのうち苦しくなる。それと同様に生⇔死の生を掴んだとしようそれはそのうち死へと変化してゆく。そう、この世で死なないものなどいないのである。故に修行者は、それらの運動による両極端を手放し、人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて運動を止め遂には彼の岸へと到達したのである。
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