スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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07月

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句776のご法話

この世の人々が、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)をとめられず諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する人間的思考の運動(快⇔不快)による両極端の妄執を離れないで、死に直面して泣く。全て手放さないといけないからである。

 

私たちが住んでいる世界。この世界は両極端の世界である。何故か?すなわち生と死の世界である。この世の中の誰でも、生で始まって死で終わる。つまり、何者をも死を逃れれることはできないのである。生を掴めば必ず死が付いて回る。この世の人々は、生を得て、人間的思考の運動である快を追い求めて生まれてはまた死んでゆく。この繰り返しののである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、それら両極端を手放し、この果てしなく続く繰り返しの世界から脱出せよ。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句775のご法話

だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端を掴もうとして不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に常に気をつけて修行を進めれば、それらを掴もうとはしない。ましてや不正をしてまでも手に入れるなどもってのほかである。故に修行者は、人間的思考の運動の想いから離れて安穏を観たのである。人の人生は短いのであるから、死ぬまでには両極端への想いを手放すのである。そうすれば、輪廻から離れて彼の岸へと到達するであろう。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句774のご法話

かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、両極端への欲望を貪り、熱中し、運動の波に溺(おぼ)れて、それらを掴んでは吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、死時には全てを手放す苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。かれらは手放したものをまた掴みたいと言う想いによってまた生まれてくるのである。

 

この世は無常であり移り変わる世界であるから、何かを掴んだとしても必ず手放さないといけない。それは、自らの身体もそうであり目の前に現れる人、物もそうなのだ。それをわからずに、手放せない人々は、輪廻の激流に飲み込まれて行きまたこの無常の世に生まれてくる。そこにあるのは、どのような人生を歩んだとしても、生で始まり死で終わる。ただそれだけのことなのである。この無常の世にあるのは、生起と消滅なのである。それをみて、それらを手放すことによって世の智者は安穏を観たのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句773のご法話

人間は、目の前に現れたものをすぐに好き、嫌いに分け好きなものを求め、嫌いなものを排除するのが常である。その運動に自らが気づいて止めるしかないのである。周りの人が、あなたの心を、あるいは反応の仕方を気をつけることは不可能である。実に人間は、未来に分別した好きなものを思い描き、過去のことにも「あの時、ああすれば良かった」などとあれこれ考えながら心は激流に溺れこの無常の世において、好きなものを手に入れては、それを常なものと願っては、この変化する世界で苦しむのである。人は、知るべきである。自らの反応の仕方に気をつけること。これこそが自らの苦を回避するする方法であり技法である。全ての想いを止めて歩む道そこに安穏があるということを。

 

これはまさに我々人間が人間的思考のまま生きると自然とこうなります。このページを見ている方も身に覚えがあるでしょう?私もそうでした。その想いが人を輪廻させるもとになっているのです。この癖ともいえる習慣を修行者は、正し、止めて彼の岸へと進むのです。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句772のご法話

窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端に執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーこのような人は、実に運動から遠ざかり離れること=(厭離)(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実に無常の世にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

 

人は、この人間という身体を求めて生まれてくる。それは、前世での想い。成し遂げられなかった想いからである。そのような人々は、この無常の世から遠ざかる修行をしようともしない。そうしては、掴むことのできないこの無常の世に生まれてくては、また次なる想いへと向かう。これが輪廻なのである。この無限の苦しみのループから抜け出すこと。それが厭離なのである。故に修行者は、怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、中道の目によって、この世を観察し実相をさとってこの世から離れるのである。

人間が求める両極端への欲望

人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端(快⇔不快)の思考によって分けたものを得ようと望んでいる人が、その好きなものを得たならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。もしも、それを得ることができなければ、かれは矢に射られたかのように苦しむ。

足で足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。

ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるもの諸々の煩悩がかれにうち勝ち危い災難がかれをふみにじる。失われるものを掴もうとする想いによって苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。

それ故に、人は常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、すべてを手放し、彼の岸へ到達せよ。

スッタニパータについて

皆さんお釈迦さまと言えば、仏教の創始者という事ですが、このスッタニパータの時代は、お釈迦さまがひとりの修行者として修行されていた時代の質疑応答です。

ここでは、いろんな修行者の人が修行完成者であるお釈迦さまに様々な質問をするのですが、それに対してお釈迦さまが直接お答えになっている非常に貴重な内容となっています。

この修行者たちは何を修行しているのかというと、この世の中は、無常つまり、時間と共に変化していく世界です。そしてこの世に存在している人々は、輪廻転生してまた生まれてくる。つまり、同じ事を繰り返している無限ループのようなものです。そこから解脱するために修行をしているわけですね。

つまり、どのような人生を歩もうとも、そこにあるのは生と死。考えてみてください。この世で死なない人は誰もいない。なぜか?それは生を受けたからです。生まれてきたからには必ず死が付いてくる。

この世の中は無常ですから非常に苦しい。つまり苦しみの世界です。当時の修行者たちは、この苦しみの世界から何とか抜け出したい。その想いで修行完成者(輪廻から解脱した)お釈迦さまへ苦しみの世界からの脱出方法を必死に聞きました。

その問答を集めたものがこのスッタニパータです。

お釈迦様の時代からかなりの時が経った現代。しかし環境が豊かになっても人々の心は当時とそれほど変わりません。つまりこの世は化学や医療が進歩してもやはり無常だからです。そこにあるのはやはり生と死。

皆さんもこのスッタニパータを学ぶことによって、いや、実践することによって本当の幸せ=この輪廻からの脱出を是非成し遂げて下さい。

死では解決できないのです。

解決する方法は「ただひとつ」生きているうちに「さとり」を得ることです。

そして遂には彼の岸へと渡るのです。

スッタニパータ 学生ピンギヤの質問1124の解説

1146 「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」

 

 

「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を止めて信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた人間的思考の運動(清浄⇔不浄)がもたらす信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」信仰によってまたこの無常の世に生まれることが無いように。

 

スッタニパータ 学生ピンギヤの質問1123の解説

1122 「四方と思惟(しい)と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識(し)られないなにものもありません。どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、ーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」

 

1123 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

 

 

師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなく人間的思考の運動(快⇔不快)を止める修行にはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」