もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない煩悩にとらわれている人が人間的思考の運動(快⇔不快)を止める正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見=「人間的思考の運動(快⇔不快)」がある人」と呼ぶ。
人間的思考の運動を止めた眼で現象を観察しないと真理を観ることはできないのであるから、見解によって真理を観ることはできないのである。故に人間的思考の運動を立ち上げたまま分別をしようとする人は、修行の道を踏み外しているのである。
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