諸々の事物=「両極端と呼ばれる対象」に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、掴まないが故に捨てることもない。かれはこの無常の世にありながら一切の偏見=「人間的思考の運動(快⇔不快)」を掃い去っているのである。
諸々の事物=「両極端と呼ばれる対象」に関してたより近づく人々は、全く反対意見の人々がいるのであるから、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。故にそれらを掴もうとしなければ言いがかりを受けることもない。この無常の世は、生から死への運動への道なかばである故にその運動を止める人かれこそはその運動から離脱する聖者なのである。
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