自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、両極端を手放し、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして何かを掴もうと輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。それは輪廻からの解脱である。
人間的思考の運動(正⇔誤)を止める事が出来なければ、人は正を追いかけてその人が正しいと思う眼で世の中を見る。彼が誤りだと思う対象を排除する。かれらはそれ(正しいと思う対象)を手に入れるためにはいつわりと驕慢に陥る故にそれらを追い求めてまた生まれてくるのである。人間的思考の運動(正⇔誤)を止めて、それらへの想いを捨て去った聖者はもはやそれらを追い求めることもなく輪廻から解脱するのである。
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