諸々の事物に関する固執=「自らの運動の癖」はこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの偏執の住居(すまい)のうちにあって、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、不快と感じてはものごとを斥(しりぞ)け、また快と感じてはこれを執(と)る。
お釈迦さまの中道の修行それは自らの反応の仕方、自分がどのような反応の仕方をするのかをよく観察し、気づく事から始まる。そしてその反応の仕方に気づけばそれを止めるのである。気づいて止めるその繰り返しである。その制御機能が働くようになれば自然とそれが立ち上がる止められるようになる。修行をしない人々は、人間的思考の運動を立ち上げては両極端を掴み無常の世でそれらを失い苦しむのである。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動を止める事に努め安穏を観たのである。
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