人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、両極端に汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、運動によって「ゆらぐ=変化する」ものにたよる平安に執着しているのである。
人間的思考の運動を立ち上げたままの状態では、両極端を掴もうとする思考に陥る。人はそれを掴むと喜び、また掴もうと追い求めるのである。この無常の世では、それらは変化するのであるから揺らぐものなのである。故に修行者はそれらを離れ、思考の運動を止めて安穏を観るのである。
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