スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

10月

スッタニパータ マーガンディヤ845の解説

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

竜(修行完成者)は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、人間的思考の運動(快⇔不快)に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は中道を保ち平安を説く者であって、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

自らがこだわるような家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の両極端による欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。それらの想いを制することによってのみ中道を保ち悟りへと到達するからである。

スッタニパータ マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて中道を歩む修行者はどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。かれには追い求めるべき両極端の想いは存在しないのである。故に真理へと到達するのである。

 

スッタニパータ マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げ、『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその両極端の思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いうそれらを掴みに行くような思いは存在しない。

スッタニパータ マーガンディヤ841の解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分の人間的思考の運動(快⇔不快)による分別した教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、両極端に執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの中道がもたらす内心の平安について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

スッタニパータ マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらの人間的思考の運動(快⇔不快)による分別を捨て去って、両極端に固執することなく、こだわることなく、中道を歩み、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

スッタニパータ  マーガンディヤ836の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を静止して、諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつそれらから離れ中道を歩むことに内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

スッタニパータ マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

(師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、その陰に潜む両極端による苦しみを見抜いて、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」と観想しながらそれら人間的思考の運動(快⇔不快)を退けたのである。

スッタニパータ パスーラ834の解説

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない

 

 

さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては心中にもろもろの偏見を考えて、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

スッタニパータ パスーラ833の解説

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

またかれらは対立を離脱して中道を歩み、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で両極端を求めるような「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。