スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

10月

スッタニパータ 死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

自ら見る事を知って、依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、やり直したいと言うような、生存のための妄執も、修行に種着をするような、生存の断滅のための妄執も存在しない。かれは、中道を歩みあるがままに知るのみである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

平静(中道を保ち)であって、常によく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけていて、世間において他人と自分とを比較するような運動をも制し、等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには運動による煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854の解説

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保つ修行(日常)の心構えを語ろう。思考の運動を止めて修行を行い、利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。このように心が運動しないようにせよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に853の解説

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、分別を制して、(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また何かを得たとしても高慢にならず、中道を保ち柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。このように聖者は現象に動揺することもなく、あるがままに理法を観る。

スッタニパータ 死ぬよりも前に852の解説

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)による両極端を掴もうとする遁欲(とんよく)などから遠ざかり、何かを得ようと偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、何かを得ても慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。このように人間的思考の運動(快⇔不快)から離れたところに座すものである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851の解説

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

自らの人間的思考の運動(良⇔悪)を制し、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。現在に置いても思考の運動を制し、感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の両極端がもたらす偏見に誘われることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に850の解説

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

かの聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。両極端を掴もうとしないならば、思考の運動がもたらす落とし穴に引き込まれるようなことは起きないのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に849の解説

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。

スッタニパータ マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端の想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。思考の運動を止めた観察による智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。両極端の想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、この無常な世の中をうろつく。」

スッタニパータ マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、慢心に至ることがない。かれの本性はそのような両極端によるものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす執着の巣窟に導きいれられることがない。