842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げ、『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその両極端の思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いうそれらを掴みに行くような思いは存在しない。
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