スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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05月

スッタニパータ 武器を執ること954の解説

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳(ものおし)みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

 

 

聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす比較分別を離れ、自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは中道を保ち安らいに帰し、掴んだものを手放したくないといったような慳(ものおし)みを離れ、掴むこともなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

スッタニパータ 武器を執ること953の解説

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)による運動によって動揺して煩悩に悩まされることなく、中道を保った叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした運動による営みから離れて、至るところに安穏を見る。

 

スッタニパータ 武器を執ること952の解説

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して中道を保っている。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

スッタニパータ 武器を執ること951の解説

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれは(このような)〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれはこのような掴んで離さないといった〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。かれは何ものをも取ることなく手放している。

スッタニパータ 武器を執ること950の解説

950 名称と形態について、〈わがものという想い〉の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。

 

 

名称と形態について、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、〈わがものという想い〉の全く存在しない人、また全てを手放し、何ものかがないからといって悲しむことのない人、ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。

スッタニパータ 武器を執ること949の解説

949 過去にあったもの(煩悩)を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

 

 

過去に人間的思考の運動(快⇔不快)によって分別した(煩悩)を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、汝に何ものも有らぬようにせよ。中間=現在においても汝が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

スッタニパータ 武器を執ること948の解説

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、世間における諸々の両極端の運動がもたらす欲望を超え、またそれらを掴もうとする克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、両極端に流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。このように中道を歩む者である。

スッタニパータ 武器を執ること947の解説

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨(うらや)むことがない。

 

 

かれは智者であり、修行の達人である。かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって理法を知りおわって、両極端に依りかかることがない。かれは世間において中道を歩み、両極端がもたらす感情から遠ざかり、世の中で何びとをも羨(うらや)むことがない。

スッタニパータ 武器を執ること946の解説

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らかになった人」と呼ばれる。

 

 

バラモンである聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切の両極端を捨て去って、中道を歩む「安らかになった人」と呼ばれる。

 

スッタニパータ 武器を執ること945の解説

945 わたくしは、(牽引する者のことを)遁欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉(ほそく)と呼び、超(こ)えがたい欲望の汚泥(おでい)であるともいう。

 

 

わたくしは、人間的思考の運動(快⇔不快)に牽引する者のことを遁欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉(ほそく)と呼び、超(こ)えがたい欲望の汚泥(おでい)であるともいう。それらに飲み込まれるともはや真理を見る事はできない。