スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ 迅速922の解説

921 〔質問者いわく〕、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは、正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

 

922 〔師いわく〕、「眼で視ることを貪(むさぼ)ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺(たんでき)してはならない。世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。

 

 

眼、耳、舌で感じるものに対しての人間的思考の運動(快⇔不快)を止めよ。「眼で視ることを貪(むさぼ)ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺(たんでき)してはならない。世間における何ものをも、両極端を制し、わがものであるとみなして固執してはならない。

スッタニパータ 迅速920の解説

920 海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上らせてはならない。

 

 

海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を静止して不動であれ。修行者は何ものについても手放す事に心がけ欲念をもり上らせてはならない。

スッタニパータ 迅速919の解説

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

 

 

 

修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何ものをも掴むことなく、心のうちが平安となれ。外に静穏を求めて掴んではならない。内的に思考の運動を制して平安となった人には取り上げられるものは存在しない。何も掴まないものをどうして捨てられるものがあろうか。

スッタニパータ 迅速918の解説

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。

 

 

慢心によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。これらは全て人間的思考の運動(慢心⇔卑下)である。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)=運動せずにおれ。

スッタニパータ 迅速917の解説

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

 

 

 

内的にでも外的にでも、いかなることがら=思考の運動による癖をも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。そのように人間的思考の運動(慢心⇔卑下)をも制するのである。

スッタニパータ 迅速916の解説

915 〔問うていわく、ー〕「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れること平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」

 

916 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

 

師(ブッダ)は答えた、「〈われは人間的思考の運動(ある⇔ない)を立ち上げ、考えて。有る〉という人間的思考の運動に引き込まれるような〈迷わせる不当な思惟〉の根本=運動をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇914の解説

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。

 

 

見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して分別することなく、敵対することがない。かれは両極端の運動による負担をはなれて解放されている。かれは、何かを欲して、はからいをなすことなく、両極端による快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。中道を歩む者である。ー師はこのように言われた。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇913の解説

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。

 

 

過去に分別した人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、過去の汚れを捨てて、新しい汚れ=分別をつくることなく、両極端の欲におもむかず、両極端にこだわって執着して論ずることもない。賢者は諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす分別=偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない中道をあゆむのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇912の解説

912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

 

聖者はこの世で諸々の自らの人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは両極端に動揺して不安な人々のうちにあっても中道を保ち安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げてはそれに執着しているのだが。-

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇911の解説

911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

修行者は、修行方法を正しく知って、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。両極端の見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を人間的思考の運動(快⇔不快))であると知って、心にとどめない。ー他の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、それに執着しているのだが。-