スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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09月

スッタニパータ 争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中で人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は外的な事物にとらわれた断定を下しそれらを掴む。聖者は、現象をあるがままに見、その無常で空である輝きを見る。

 

 

スッタニパータ 争闘865の解説

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端の欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、欲望を掴んで離さないために起る。故にそれらを手放したならば、輪廻から解放されるのである。

スッタニパータ 争闘862の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは両極端に分け掴んだものを手放せない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に861の解説

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

かれは世間において両極端に分けて取ることがないので、わがものという所有がない。また取れなかったとしても無所有を嘆くこともない。かれは欲望に促(うなが)されて、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実にあるがままに観る平安なる者と呼ばれる。」

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

 

聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす想いである『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。かれは、比較対象を離れ、自らを追究し、あるがままに真理を見る。

スッタニパータ 死ぬよりも前に859の解説

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制しているかれはその非難を特に気にかけることはない。かれは、思考を止めた目で自らを知るものである。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に858の解説

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)をせいしたかれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。そのように諸々の執着から離れ、あるがままに真理を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857の解説

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の欲望を制し、それらを顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ平安なる者=中道を歩む者である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。故に真理を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

依りかかることのない人は、自らの観察によって、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。そのように自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制しているのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、平静であって、怠ることなく観察を行い常によく気をつけていて、世間において他人と自分とを等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を見極め、煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。