802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、あるがままに観る事を常とし、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。それらへ対しての自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
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