860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。
聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して両極端を掴むことなく貪りを離れ、掴まないが故に慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を離脱して自らの思考を制し、妄想(もうそう)分別におもむかない。これら比較することは、修行とは全く関係のないことだからである。
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