856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、あるがままに世の中を見聞し、理法を知る。完全なままに展開される理法を視てこだわらない。そのままで、完成されているからである。故にかれは、生存のための妄執も、この苦の生存を終わらせたいと言う妄執も存在しない。全ては、気づきと、知ることである。
suttanipata
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856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、あるがままに世の中を見聞し、理法を知る。完全なままに展開される理法を視てこだわらない。そのままで、完成されているからである。故にかれは、生存のための妄執も、この苦の生存を終わらせたいと言う妄執も存在しない。全ては、気づきと、知ることである。
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