818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来なければ、かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、修行の目的である人間的思考の運動(快⇔不快)を制する道を外れ、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。それを知って中道を歩むべきである。
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818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来なければ、かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、修行の目的である人間的思考の運動(快⇔不快)を制する道を外れ、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。それを知って中道を歩むべきである。
817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。
かつてかれのもっていた名誉も名声も、ひとたび人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来なければ、執着が立ち上がり、すべて失われる。このことわりをも見たならば、修行者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、淫欲の交わりを断つことを学べ。それを掴む事よりも。それらによる苦しみの方が大きいこと知るべきである。
816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
かつては独りで暮らして修行していたのに、のちに人間的思考の運動(快⇔不快)が抑えられず淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)を求めて活動を繰り返す。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、彼の岸へと到達するものである。
814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」
815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。
師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制する教えを失い、動物的な行いをする。これはかれのうちにある動物的な性質である。両極端を求めれば必ず苦が伴う事を知って、修行者はそれらを回避せよ。
813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。
自らのの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した修行者は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に好き、嫌いに執着して考えることがない。かれは自らの思考の運動を制し、あるがままに理法を視る。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)を貪ることなく自らの反応の仕方を見極めて遂には彼の岸へと到達したのである。
812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
人は、常に人間的思考の運動(快⇔不快)に捉われ、見たり、学んだり、思索したことを両極端に分け、快いものを発見しては喜び、意見が違う事には怒る。あるいはこだわり苦悩する。聖者はそれを知って、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、両極端を回避し、心は動揺することなく、中道を歩み蓮の葉が水をはじくがごとく汚されることなく安穏を観たのである。
811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。
聖者は、蓮の葉が水をはじくように、様々な人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による誘惑をはじく。そうしては、何かを掴んで愛することもなく、両極端の願いを捨て去って憎むこともない。こだわりを捨てて、悲しむことなく、掴まないが故に物惜しみすることもなく、中道を歩む。かれこそは安穏に至った人だと呼ばれる。
810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
世の中の人々が暮らす世界、あるいは世の人々が求める世界は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端を求める世界である。そこは荒波であり、苦楽が交互に押し寄せる。聖者はそれを知って、両極端を制し、それらの荒波を回避し独り静かに現象を観察し、真理を悟って遂には彼の岸へと到達するのである。
809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。
わがものとして執着したものを掴んだ者は、どのような苦しみがついてまわるのであろうか?それは、憂いと悲しみと慳(ものおし)みである。この世は無常であるが故に、執着の対象は、変化し、手元を離れる。故に憂いと悲しみと慳(ものおし)みを掴んだ者は、それらから逃れることは出来ないのである。それを知って聖者は、対象を離れ、それらを手放して安穏を見たのである。
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
世に生まれ、名前を持ち、その時を生きる。人は、常に変化し、若き者も年老いて、やがて死を迎える。その生きざまは世に伝えられるかも知れないが、ただ、それだけである。それは、人が生まれて、死を迎える。その事実がある。生あるものには死がついてまわることを知って、その苦しみから離脱しようとするならば、生を掴んではならない。