スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2020年

スッタニパータ パスーラ828のご法話

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)による反応により感情が揺り動かされ得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。それらの反応を制することが出来たならば、心は安穏に帰してあるがままに物事を観る事ができるのである。

 

スッタニパータ パスーラ827のご法話

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)するが、それらは人間的思考の運動(勝ち⇔負け)の範疇にあり、例え勝ったとしても、あるいは負けたとしても、修行とは全く関係ないのである。むしろ、勝ち負けに反応している事に問題がある。修行とは、自らの人間的思考の運動に打ち克ち、自らを制してこそ修行と呼べるからである。

スッタニパータ パスーラ826のご法話

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

 

 

集会の中で論争に参加した者は、人間的思考の運動(快⇔不快)が動き出し、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、他人から論難されると、怒る。すなわち自らが理想とする展開に執着をし、称賛を欲しているのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、それらを手放して安穏を観たのである。

スッタニパータ パスーラ825のご法話

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。

 

 

かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)による快適な声(称賛)を聞きたいが故に論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者であると烙印(らくいん)し、師などをかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望む。それを知って修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を離れたところに真理を見いだし自らを制するのである。

スッタニパータ パスーラ824のご法話

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執(こしゅう)している。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、自らの運動によってこだわった考え「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が運動によって依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理と思い込んでいる考えに固執(こしゅう)している。それを観て修行者は、それらのこだわりを捨て去って、自ら真理を視たのである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ823のご法話

823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー

 

 

聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それらを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。運動がもたらす想いそれは、人を束縛する。それを知って修行者は、運動がもたらす想いを離れ、それらを手放して安穏に至るのである。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ822のご法話

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす俗事から離れて、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、現象を観察することによってのみ真理を見いだすことが出来るのである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ821のご法話

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。

 

 

聖者はこの世で人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来ないならば、前後にこの災い=執着のあることを知り、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽って、その対象に執着をしてはならない。両極端を求めないところに真理はあるものである。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ820のご法話

820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、あるいは、異性を執着の対象として掴んだならば、愚者のように悩む。故に賢者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し何ものをも掴まず、全てを手放して安穏を観たのである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ819のご法話

819 そうして他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

 

 

そうして他人に詰(なじ)られた時には、人間的思考の運動(快⇔不快)によって掴んだ自らの立場を手放さないが故に虚言に陥(おちい)る。すなわち、自らを傷つける刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。それを知って修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、両極端を掴むことなく中道を歩み遂には彼の岸へと到達するのである。