831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。
人間界のあるいは人間的思考の運動に基づいた分別それは、歓声を受け、あるいは王に褒められたものが優れていると見なされ、優れていると勇士は思い込んでいる。人間的思考の運動(快⇔不快)を制してあるがままに観る聖者は、全てを知るものである。かれに歓声あるいは誉め言葉が必要であろうか?それを求めるであろうか?かれはそれらの運動を解脱したところに存在しているのである。
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