780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。
人が他人を誹るときそこには、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が動いている。嫌いあるいは不快を感じた時に、それらを排除しようとするのである。そうしては他人に同意を求める。それらが自分が見たことであっても、他人から聞いた事であっても、人間的思考の運動が動いている事には変わりがない。人間的思考の運動が動くときそこには、心の荒みがある。あるいはそれによって、生と死が動き出し、楽と苦が動き出す。すなわちそれらは荒波である。聖者は、それらを観て、それらに近づくことなく、安穏に帰したのである。
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