スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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10月

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句776のご法話

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

 

 

世の人々の想いには実に様々な想いがある。それは、前世においての想い。今生での想いによってまた、やり直したいと言う強い想いによって生まれてくる。これらの想い=妄執を離れないうちは、生まれてくるのであるから、また死に直面することになるのである。それを知って修行者は、それらの想いを捨て去って、こだわりを捨て、あるがままに変化のありようを見て、それらを知って、遂には、生と死とをのり超えたのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句775のご法話

人間は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により、物事を両極端に分け、好きなものを得るため、あるいは嫌いなものを排除するために不正を行うその行為が痴である。貪を得るために痴が生じる。すなわち痴が生じ、痴を行うと、自らを害する元を作ることになるのである。それを知って修行者は、この貪⇔痴の連鎖によく気をつけ、荒波を回避して中道を歩むのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句774のご法話

人は、人間的思考の運動(快⇔不快)により快を貪り、あるいは不快を排除する。それに熱中するがあまり、不正をしてでも手に入れよう、あるいは排除しようとする貪瞋痴による痴が生じる。当然、不正をしているので、死の間際に大丈夫だろうか?という恐怖に覆われるのである。人は、死ぬと、生きているときと別の6根、すなわち目、耳、鼻、舌、身体が生じ、それは運動をするので快を得たものは、不快を生じ、不正をしたものは不正に襲われる。その運動から逃れるすべはない。ただ、ただ、生きているときに、それを行わぬことである。その道理を知って、修行者は、自らの運動によく気をつけ、善を追及して、世の中を遍歴せよ。どのように運が悪い時においても運がよい時においても正しい道を歩むならば、激流に飲み込まれることはないのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句773のご法話

人間は、目の前に現れたものをすぐに好き、嫌いに分け好きなものを求め、嫌いなものを排除するのが常である。その運動に自らが気づいて止めるしかないのである。周りの人が、あなたの心を、あるいは反応の仕方を気をつけることは不可能である。実に人間は、未来に分別した好きなものを思い描き、過去のことにも「あの時、ああすれば良かった」などとあれこれ考えながら心は激流に溺れこの無常の世において、好きなものを手に入れては、それを常なものと願っては、この変化する世界で苦しむのである。人は、知るべきである。自らの反応の仕方に気をつけること。これこそが自らの苦を回避するする方法であり技法である。全ての想いを止めて歩む道そこに安穏があるということを。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句772のご法話

人は、輪廻転生する。ある人は、平和を求めて、あるいは戦いに勝つために、また、ある人は、恋人を求めて、あるいは、復讐のために、またあるいは助けるために、実に様々な願望によってこの世に生まれてくる。ある人は未来に望みを託し、ある人は、過去に立ち戻り、様々な星に生まれそれを織りなし到達し、また終わる。しかしながら、この無常の世でその想いは満たされることはない。なぜならば変化するからである。運動するからである。その満たされぬ思いから、無常の身体に入り、無常のものに執着をし、迷い彷徨い求める人々は、この世から遠ざかる厭離からほど遠い、この世の中は、実に想いが時間を作り出し、人を動かすものは欲望だからである。それを止めるものは真理に他ならない。この世の無常を知り、苦を知り、わがものという想いを離れたものかれこそは、彼の岸へ到達する道を視たものなのである。

スッタニパータ 欲望771のご法話

人間の煩悩はよく激流に例えられる。それは、ひとたびその流れ(運動)が始まったならば、激流の如く流れだし、その流れを止めることは非常に困難だからである。人は自らの煩悩によってその激流を作り出し、自らが作ったその激流に溺れる。故に気をつけるのだ。日々自らの反応の仕方によく気をつけその激流を回避せよ。その気をつけることこそが、船の水を汲みだすことなのである。

スッタニパータ 欲望769、770のご法話

人は目の前に現れたものに対して、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による反応の仕方にって儲け話、家、お金、車、雇用者、異性、親族、その他を両極端に分け好きなものを欲する貪りが発生すると、それに伴いそれが得られない場合は怒りを生じ、得るためにうそをつくような迷いも生じるこの連鎖がかれに付き纏う災難なのである。ひとたびこの反応の仕方により煩悩が生じるとあたかもやぶれた船に水が浸入するがごとくかれを飲み込んでゆく。聖者は、貪りにはこの難がついてまわることを知って、よく気をつけこの難を回避し、心は寂静に帰しているのである。

スッタニパータ 欲望768のご法話

人は、この人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が作り出す両極端の運動によってあくせく動き割りその心は激流の如くである。ある時は、好きなものを追いかけ、ある時は嫌いなものを排除しようとする。その考えにとらわれ、動き回るのである。故に、この両極端の運動をしている者は、安らげないのである。常に運動により心配に襲われ、無常の世に苦しめられる。それを知って聖者は、自らの運動に注視し、それを制し、自らの心をよくコントロールし、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 欲望767のご法話

人は、喜びを追い求めそれを得ようとする。そしてその対象を掴もうとする。その対象は、何か?それは苦である。人は、欲望の対象が得られないならば矢に射られたかのように苦しむが、それらを掴まなければ、苦しみことはない。人は知るべきである。自らが掴もうとしている対象は苦であることを。それを知ったならば、人はもはや苦しむことはないであろう。

スッタニパータ 欲望766のご法話

人間は、好きなものを手に入れると単純に喜ぶが、それは同時に苦しみをも手にしているのである。すなわち人間的思考の運動である喜び⇔悲しみの運動である。この世は無常であるから、欲望の対象を手に入れたと同時にそれらを失うと言う苦しみへと変化を始めるのである。世の人々は、この運動を繰り返し、自らが作り出した激流(喜び⇔悲しみの運動)に溺れかかっている。それを知って聖者は、全ての喜びを捨て去って、悲しみを回避し、遂には安穏を観たのである。