スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2019年

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇887の解説

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

 

 

人間的思考の運動(二元の運動)による偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して他の説を蔑視(べっし)あるいは分別し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。これら両極端の思考は、ある時は喜びある時は、苦を生じるすなわち苦の流転のさなかにあるのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇885、886の解説

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

 

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を他人から聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の人間的思考の運動(真理⇔虚妄)による偏見にもとづいて思索考究を行って、「わが説は真理である」「他人の説は虚妄である」と二つのことを説いているのである。これを見て修行者は、この人間的思考の運動を止めた自らに真理を観たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇884の解説

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

 

各々が知りえる真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、寂静にして争うことがない。かれらは。それぞれが知りえた異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の修行者は、同一の事を語らないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇883の解説

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?

 

 

或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその見解をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の人間的思考の運動(優⇔劣)が立ち上がった修行者は同一の事を語らないのであろうか?人間的思考の運動(優⇔劣)を制した修行者は、真理である、真実であるとも言わないし、虚偽である虚妄であるとも言わない。自らの内に真理をみいだし、また、その心理に執着することもなく、また、他にアピールする必要も無いからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇882の解説

882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

 

諸々の愚者すなわち人間的思考の運動(優⇔劣)の範疇にあるものが相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。知者とは、このような両極端の思考による運動から離脱したものなのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

 

またもしも自分の智慧によって清らかとなり、自分の智慧によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの智慧はその点で等しく完全であるからである。しかるに人間的思考の運動による偏った見方によって自らの見方が優れ他者の見方が劣っているとみるのであれば、それは、人間的思考の運動(優⇔劣)であるから揺らぐ自らの考えに執着しているのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880の解説

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

 

もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の人間的思考の運動(優⇔劣)による偏った見方を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。修行者とは、自らを磨くことに努め励み、他にとらわれないものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879の解説

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

 

 

かれらはこのように異なった自らの見方に執着(苦)をいだいて論争し、人間的思考の運動(真理者⇔愚者)の反応の仕方により「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?そもそも真理に達した人々は、自らの考えにこだわることなく人間的思考の運動を制するものなのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇878の解説

878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

 

 

世の中の学者たちはめいめいの人間的思考の運動(正⇔誤)による見解に固執して、互いに異なった自らの見方に執着をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。他の見方が自らの修行と何のかかわりがあるのであろうか?その思考の運動こそが人間的思考なのである。

 

 

スッタニパータ 争闘876、877の解説

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

 

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

 

 

「この世において或る賢者たちは、人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方により『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方により断滅を説き、精神も肉体も残りなく消滅することのうちに最上の清浄の境地があると巧(たく)みに優れていると語っている。かの聖者は、『これらの偏見は人間的思考の運動(優⇔劣)によるこだわりがある』と知って、諸々のこだわりである反応の仕方を熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存すなわち優⇔劣による運動を受けることがない。」15