スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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01月

スッタニパータ パスーラ829の解説

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

 

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がり、心の中に期待したような利益(快)を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

スッタニパータ パスーラ828の解説

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には人間的思考の運動である得意と失意とがある。それは、運動をするのであるから称賛⇔非難の運動を繰り返し、称賛されては、得意になり、非難されては、失意に陥る。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、修行には、なんの役にも立たないからである。

スッタニパータ パスーラ827の解説

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

 

諸々の審判者がかれの緒論に対し人間的思考の運動(勝⇔負)の分別により「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者も人間的思考の運動(喜⇔悲)により嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。それらの反応の仕方はすべて両極端の思考である。

 

スッタニパータ パスーラ826の解説

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

 

 

 

集会の中で論争に参加した者は、両極端に組した者の中から自らと同様の見方をする者から称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして人間的思考の運動(称賛⇔非難)がおこり、敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、他人から論難されると、怒る。このように貪瞋癡のループへと陥るのである。

 

スッタニパータ パスーラ825の解説

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。

 

 

 

人間的思考の運動(正⇔誤)によりかれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者であると烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者(人間的思考の運動を制した者)であると称しながら、人間的思考の運動(称賛⇔非難)を立ち上げて、自分が称賛されるようにと望んで。

スッタニパータ パスーラ824の解説

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執(こしゅう)している。

 

 

 

かれらは人間的思考の運動(清浄⇔不浄)による反応の仕方によって「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の両極端の反応による真理に固執(こしゅう)している。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ823の解説

823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー

 

 

 

聖者は諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)によって立ち上がる欲望を制し、顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、完全に制して激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に度々反応して束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ822の解説

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。

 

 

 

人間的思考の運動(損⇔得)の範囲である俗事から離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかし、これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。心を動かされずに制せよ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ821の解説

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。

 

 

聖者はこの世で前後にこの心が人間的思考の運動(快⇔不快)により動揺する災いのあることを知り、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ820の解説

820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

 

 

独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方によって淫欲の交わりに耽ったならば、運動がおこり煩悩の激流が彼に襲いかかり愚者のように悩む。