スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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01月

スッタニパータ マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

 

 

人間的思考の運動による分別によって『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いすなわち「こだわり」によって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して人間的思考の運動による分別を制して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思い(煩悩)は存在しない。

スッタニパータ マーガンディヤ841の解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分の教義すなわち人間的思考の運動(ある⇔ない)にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、「教義がある」あるいは「学問がある」あるいは「知識がある」と執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの内心の平安すなわち人間的思考の運動(ある⇔ない)を止めることについて微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたはわたくしの説を『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

スッタニパータ マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それら人間的思考の運動(ある⇔ない)による反応の仕方を捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。これが内心の平安である」

 

スッタニパータ マーガンディヤ837の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。人それぞれに真理への道があるのであるから『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による執着を執着であると確かに知って、諸々の偏った見方における反復運動の過誤(かご)を見て、両極端に固執することなく、自らの心の動きを省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

スッタニパータ マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

師(ブッダ)は語った、「われは昔さとりを開こうとした時に、近寄ってきた3人の異性に対して愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)が自らの心に潜み立ち上がろうとする反応の仕方を視て、自らの奥底に潜む心の危険(苦の要因)を察知し、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろうと観想しながら、わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだと自らを制したのである。」

 

 

スッタニパータ パスーラ834の解説

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

 

 

さてあなたは「自分こそ勝利を得るであろう」と思いめぐらし、心中にもろもろの人間的思考の運動(勝⇔負)による偏見を考えて、人間的思考の運動(勝⇔負)を止め邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

スッタニパータ パスーラ833の解説

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

 

またかれらは人間的思考の運動(勝⇔負)による対立を離脱して行い、一つの見解を他の諸々の偏見と分別させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で分別によって「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

スッタニパータ パスーラ832の解説

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

 

人間的思考の運動(勝⇔負)による両極端の特殊な偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する人間的思考の運動(勝⇔負)にこだわる者はここにいない」と。

スッタニパータ パスーラ831の解説

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

 

たとえば王に養われてきた勇士が、人間的思考の運動(勝⇔負)によって同じような運動(勝⇔負)をしている相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの汝に、ふさわしい、人間的思考の運動(勝⇔負)による両極端の真理に達した人のいるところに到(いた)れ。人間的思考の運動(勝⇔負)を制したものには、相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

スッタニパータ パスーラ830の解説

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

 

心の高ぶりというものは、人間的思考の運動(高⇔低)であり、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは欲していた快を得て、慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、自らの人間的思考の運動を制して論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「その運動によって清浄が達成される」とは説かないからである。