1099 過去にあったもの(煩悩)を涸渇(こかつ)せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執著(しゅうじゃく)しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
人間的思考の運動により過去に分けた反応の結果である煩悩を枯渇せしめよ。未来には、人間的思考の運動を制して、両極端に分けないようにせよ。現在においても、人間的思考の運動である反応の仕方によく気をつけ何ものにも執着しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
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1099 過去にあったもの(煩悩)を涸渇(こかつ)せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執著(しゅうじゃく)しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
人間的思考の運動により過去に分けた反応の結果である煩悩を枯渇せしめよ。未来には、人間的思考の運動を制して、両極端に分けないようにせよ。現在においても、人間的思考の運動である反応の仕方によく気をつけ何ものにも執着しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
1096 ジャトゥカンニンさんがたずねた、「わたくしは、勇士であって、欲望をもとめない人がいると聞いて、激流を乗り超(こ)えた人(ブッダ)に〈欲のないこと〉をおたずねしようとして、ここに来ました。安らぎの境地を説いてください。生まれつき眼(まなこ)のある方(かた)よ。先生!それを、あるがままに、わたくしに説いてください。
1097 師(ブッダ)は諸々の欲望を制してふるまわれます。譬えば、光輝ある太陽が光輝によって大地にうち克(か)つようなものです。智慧ゆたかな方(かた)よ。智慧の少いわたくしに理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、ーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
1098 師(ブッダ)は答えた、「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪(むさぼ)りを制せよ。ー出離(しゅつり)を安穏(あんのん)であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたたちにとって存在してはならない。
ジャトゥカンニンよ。諸々の人間的思考の運動による欲望に対する貪(むさぼ)りを制せよ。その人間的思考の運動から出たところの出離(しゅつり)を安穏(あんのん)であると見て、両極端に分ける事をやめ、取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたたちにとって存在してはならない。人間は、人間的思考の運動によって快と感じたものを欲しいと感じそれを取る。また、不快と感じたものを捨てる。この運動を繰り返して、禍福が縄のごとく苦楽が襲いかかるのであるから、その運動から出ることである。
1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」
自らの人間的思考の運動による反応の仕方によく気をつけ、現世において、全く両極端の想いから離れた人々は、両極端の誘惑、すなわち悪魔のような誘惑に伏せられない。かれらは、その悪魔のような誘惑の従者、人間的思考の運動の赴くままには行動せず、それを制して、遂には、彼の岸へ到達するのである。
1094 いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、ーこれが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。
人間は、ものごとをすぐに、快、不快の2つに分け、その両極端に執着をし、欲しい欲しいと言う想いから所有をする。いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、これが、非難すべき洲であり避難所に他ならない。すなわち人間的思考の運動によって両極端に分ける事をやめ、執着をしないことである。人は、人間的思考の運動を完全に制止したときに、ニルヴァーナへと至り、その想いから解放され、老衰と死から解放される。それは、老衰と死との消滅である。
1092 カッパさんがたずねた、「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(す)(避難所、よりどころ)を説いてください。あなたは、この(苦しみ)がまたと起らないような洲(避難所)をわたくしに示してください。親しき方よ。」
1093 師(ブッダ)は答えた、「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のための洲(避難所)を、わたくしは、そなたに説くであろう。
当時のインドでは、度々水難に人々は襲われ、水のこない州に非難していたと事からこの表現がよく使われた。ちょうど、現在の日本でも同じような現象が起きている。この世は無常であるから、我々は、常に変化の世界に住んでおり、洪水などが起こって、死の恐怖に見舞われることもあるのである。また、生を受けた者は必ず死に、若き者も必ず老いる。この世は無常なのである。それを知らずして、人は苦を生じる。そして常住を求めて執着をしてまた、この無常の世に生まれてくる。この生⇔死の運動そして変化ある時間の運動すなわち苦⇔楽の運動を制止したとき、人は安穏を観ることが出来るのである。
1090 「かれは願いのない人なのでしょうか?あるいは何かを希望しているのでしょうか?かれは智慧があるのでしょうか?あるいは智慧を得ようとはからいをする人なのでしょうか?シャカ族の方よ。かれが聖者であることをわたくしが知り得るように、そのことをわたくしに説明してください。あまねく見る方(かた)よ。」
1091 〔師いわく〕、「かれは願いのない人である。かれはなにものをも希望していない。かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいをする人ではない。トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。かれは何ものをも所有せず、欲望の生存に執著していない。」
かれは、人間的思考の運動による願いのない人である。かれはなにものをも分別しないので、両極端を希望していない。かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようと人間的思考の運動をする人ではない。トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。かれは理を知り何ものをも所有せず、欲望の生存に執著していない。すなわち人間的思考の運動がとめられない人間は、この無常である苦の世界へ自らの想いによって生まれてくるのである。
1088 トーデイヤさんがたずねた、「諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑(ぎわく)を超えた人、ーかれはどのような解脱(げだつ)をもとめたらよろしいのですか?」
1089 師(ブッダ)は答えた、「トーデイヤよ。諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、ーかれには別に解脱は存在しない。」
諸々の人間的思考の運動を制して欲望がとどまることもなく、完全に運動を制止して、もはや妄執が存在せず、中道を極めて五智に繋がり、諸々の疑惑を超えた人、ーかれには更に目指す解脱(修行)は存在しない。この人間的思考の運動を完全に制止して、五智の思考に変換し、智慧を獲得すなわち智慧と繋がることが、最終修行到達点であると。
1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、常に安らぎに帰(き)している。世間の執著を乗り超えているのである」と。
この、ものごとを両極端に分け分別する運動が苦であることをよく知って、自らの反応の仕方によく気をつけ、現世において全く両極端の運動を離れた人々は、常に安らぎに帰(き)している。世間における執著の誘惑を乗り超えているのであると。
1084 ヘーマカさんがたずねた、「かつてゴーダマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来にはこうなるであろう』といってわたくしに説き明かしたことは、すべて伝え聞くにすぎません。それはすべて思索の紛糾(ふんきゅう)を増すのみ。わたくしはかれらの説を喜びませんでした。
1085 聖者さま。あなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えましょう。」
1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを除き去ることが、不滅へのニルヴァーナの境地である。
この世において見たり聞いたり考えたり、すなわち、目から入る情報、耳から入る情報、心で感じる情報を人間的思考の運動(快⇔不快)によって識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを人間的思考の運動を制することによって除き去ることが、不滅へのニルヴァーナの境地である。
1081 ナンダさんがいった、「およそこれらの〈道の人〉・バラモンたちは、見解によって、また伝承の学問によっても清浄になれると言います。戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。(そのほか)種々のしかたで清浄になれるとも言います。聖者さま。もしもあなたが『かれらは未(いま)だ煩悩の激流を乗り超えていない』と言われるのでしたら、では神々と人間の世界のうちで生と老衰を乗り超えた人は誰なのですか?親愛なる先生!あなたにおたずねします。それをわたくしに説いてください。」
1082 師(ブッダ)は答えた、「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆(おお)われていると、説くのではない。この世において見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究(きわ)め明(あか)かして、心に汚れのない人々ーかれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』とわたしは説くのである。』
1083 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは歓喜します。ゴーダマ(ブッダ)さま。再生の要素のない境地がみごとに説き明かされました。この世において(哲学的)見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨てて、また種々のしかたをすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々、ーかれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』と、わたくしもまた説くのであります。」
わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆(おお)われていると、説くのではない。この世において人間的思考の運動を制止して、その二元の偏った見方による両極端の見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のこだわったしかたをもすっかり捨てて、すなわち、その道の喜びやこだわりを捨て、なにが妄執かをよく究(きわ)め明(あか)かして、心に二元の汚れのない人々ーかれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』とわたしは説くのである。』人間は、実に様々な人間的思考の運動をする。伝承の学問や戒律を守れば、安心し、守れなければ不安になるという。この安心⇔不安の運動である。また、伝承の学問や戒律を守っている者が正しく、それ以外の者は誤りであると言う。正⇔誤の運動である。この運動をしている限り、一時的に安心できても、運動をするので、時間とともに不安へと変化するのである。おおよそ、それらの人間的思考の運動は全て苦の元であると知って、修行者よ、自らの人間的思考の運動を制して、人間的思考の運動による喜びを捨て去って、彼の岸へ到達せよ。