909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
人間的思考(快⇔不快)の運動で見る人は、名称と形態とを見る。すなわち好みにとらわれて、ものごとを分別するのである。また見てはそれらを常住または安楽ではないか?と想像する。人間的思考を制していない人々は、多かれ少なかれ、それらをそのように見ているのである。真理に達した人々は、人間的思考の運動による妄想分別した見方によって見ることでは、清浄になるとは説かない。それらが、苦の根源であることを知って、安穏を観たのである。
コメントを残す